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ウィリー・ウィリアムス(Willie Williams、1951年7月14日 - )は、アメリカ合衆国の男性空手家(元極真会館所属)。ノースカロライナ州出身。身長196センチメートル、体重100キログラム(現役時)。 == 来歴 == === 極真会館時代 === 極真会館コネチカット支部に入門。大山茂の指導を受ける。 1975年(昭和50年)11月、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。3回戦でハワード・コリンズ〔ウェールズ出身。極真会館イギリス支部で稽古していたが、日本でどうしても極真カラテを修行したいので、1970年代初期に単身来日し、総本部に入門した。第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場後、第4回全日本選手権準優勝。その2か月後、百人組手を完遂。第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ベスト16、第2回全世界選手権5位に入賞した。現在はスウェーデンに道場を構えている。〕〔 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、78-79頁〕に体重判定で敗退。 梶原一騎が極真空手を題材に製作した映画『地上最強のカラテPART2』で巨大なグリズリーとの闘いを披露し、“熊殺し”の異名を取る。 1979年(昭和54年)11月、第2回全世界選手権では、準決勝で三瓶啓二に反則負けとなり、3位入賞となった。しかし、杉板による試割りでは正拳5枚、足刀〔親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。〕6枚、手刀8枚、猿臂(肘)7枚の合計26枚を割り、当時山崎照朝が保持していた合計24枚の記録を更新した(現在の記録)。 第2回全世界選手権前にウィリーは「プロレスこそ最強の格闘技」を標榜するアントニオ猪木に対し、“地上最強は極真カラテ”の思いから挑戦を表明した。実際には梶原一騎から新日本プロレスに売込みがあったという説もある。しかし、大山倍達の「門下生の他流試合を禁止」という考えから、ウィリーは破門される。個人として猪木と対戦する事になったウィリーだが、黒崎健時や大山茂が支援した。 1980年(昭和55年)2月27日、蔵前国技館で格闘技世界一決定戦(ウィリーはグローブを着用)が組まれた。当日は“極真空手vsプロレス”の様相を呈し、両陣営の選手や関係者がリングサイドに陣取った。結果は4R1分24秒、両者がもつれたままリング下に転落。ドクターストップによる引き分けに終わる。 破門を解かれ極真会館に復帰したウィリーは、1984年(昭和59年)1月の第3回全世界選手権に出場。4回戦で田原敬三と再々延長まで戦うが判定5-0で敗退した。同年、大山茂がUSA大山空手を設立するとウィリーもそれに従い、極真会館から離脱した。そして、ウィリーは空手道選手を引退し、バスの運転手を本業として生活をしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリー・ウィリアムス (格闘家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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